

曲木椅子No.14物語(大串哲郎)
ドイツの家具職人ミヒャエル・トーネットが1859年に発表した曲木椅子No.14は ヨーロッパで興った産業革命と大きな関わりがあります。18世紀末から19世紀 初頭にかけてのヨーロッパ、特に世界都市ウイーンの歴史的背景と職人M.トー ネットが曲木技術を家具製作に応用した流れを辿っていきます。
ミヒャエル・トーネットが家具職人となった経緯とヨーロッパの時代背景
MICHAEL THONETは父フランツ・トーネットと母エーフラウ・トーネットの長男として1796年7月2日プロイセン領ボッパルトに生れました。
父は皮のなめし職人として、人口3,000人ほどのボッパルドの町で生計をたてていました。
当時、一般市民の男子は10歳になると自分の職業を決めなければなりませんでしたが、トーネットは父の職業を継がず家具製作のギルド・マイスターであるカール・ライスターの下で修行をする事にしました。そして、1819年、23歳の時に家具製作のマイスターとしてボッパルドで独立します。
時代背景
1799年フランスで第一帝政時代を築いたナポレオンはそれに相応しい「アンピール様式」を、イギリスでは大航海時代から海外の植民地で得た富を「ビクトリア様式」として風靡した時代で、家具職人は貴族の好む家具を造るのが普通で一般の市民が家具職人の造った家具を使う事はあり得ないことでした。
当時の産業としてはそれまでの家内制手工業的作業に代わって18世紀末に水力や内燃機関を動力とする機械設備による大規模工場がイギリスに興り、その「産業革命」という波がヨーロッパ大陸に渡って大きなうねりとなり東に向かい、19世紀初頭にはプロイセン、オーストリアへと伝わって来た頃です。
1806年ナポレオンはプロイセンと戦争を起こし、ボッパルドの町もナポレオンの軍に一時占領された事もありましたが、モスクワ遠征に失敗したナポレオンは1813年に失脚しました。1814年ナポレオンの失脚後、オーストリアの首都ウイーンで戦後処理のための「ウイーン会議」が開かれます。「会議は踊る。されど会議は進まず」の舞台です。この会議を主導したのが、オーストリア宰相のメッテルニッヒ侯でした。
ウイーン会議が催される頃から、ウイーンの郊外には繊維工場などが次第に増え産業社会への胎動が起こりつつありました。産業の育成、拡大が国の基盤となると考えたメッテルニッヒ侯は多くの産業者をウイーンに招聘し、ある程度の特権と権利を授けることによりオーストリアの殖産新興の拡大を計ります。
そして、それまで富を集約してきた貴族は新興の資本家にその座を奪われていきます。資本家(ブルジョアジー)や小資本家(プチ・ブル)、小市民は金ピカのアンピール様式や怪しげなビクトリア様式、ロココ様式とは違う新しい生活や様式を求めるようになりました。ドイツ語圏ではそれをビーダーマイヤー様式として確立していきます。
1819年ボッパルドで家具職人として独立したトーネットは1820年にアンナ・マリア・クラーシュと結婚します。トーネットはマイスターとしての確かな手工業の技術と適正な価格で、主にビーダーマイヤー様式の椅子を制作し、多くの顧客を得ながら商売を拡げて行きました。
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