

歴史都市ウィーンを規範に文化都市<東京>を見つめ直すフォーラム(吉村實)
パリのシャンゼリゼ通りやウィーンの環状道路が何故美しいのか何時も考えます。それらが建設されたのはたかだか150年ほど前です。大戦による被災後も再建しその美しさを維持しています。また1200年の京都、300年の江戸は町屋という衛生的な美しい町づくりが行われました。翻って現代の東京を見ると、機能美といいながら行政や企業側の論理で町が出来、何処も近似になっています。そこには一方の価値観で、市民を含めた共通の価値観が見いだせません。それは不便さも美学的に納得されるものであれば文化として意味を持つものなのに、エトス(社会全体の共有の美学)と呼ばれるものが議論されない社会風潮に原因があるかと思います。市民社会の形成時に芸術家が関与し独特の街を作り上げたウィーンをモデルに現代の都市/生活環境を考える広場にしたいと思っています。
音楽1
モーツアルトが6歳の時マリアテレシア女帝の傍にいた幼いアントワネットに求婚したエピソードや映画「アマデウス」に現れたヨーゼフ2世の話で宮廷に音楽が不可欠な生活が見える。
マリアテレシア女帝の父カール6世(治世1711-1740)まで、フェルディナンド3世(治世1637-57)、レオポルド1世(治世1658-1705)、ヨーゼフ1世(治世1705-09)と4代続く音楽好きの皇帝がいた。宗教音楽から発生しているとはいえ音楽が身近で彼らもまた楽器を手にしていた。イタリアオペラをも擁護し音楽の嗜みは皇帝の教養であった。1600年頃から1750年頃までは一般的のバロック音楽の時代とされる。まさしくこの時代は<バロック時代>で建築的にもカソリックの権威を取り戻すべく権威的で流麗な建築様式を生み出した。均整の取れたルネッサンス様式から離れて情緒的でドラマティックな意図で作られるようになった。ウィーンにはカールス教会、ベルベデーレ宮殿、ホーフブルグ(王宮)の一角(特に国立図書館は圧巻)、シェーンブリュン宮殿など多くのバロック建築が現存している。専制国家の威信を顕示すべく芸術的に建築、彫刻、絵画が舞台となり、衣装や装飾品等が揃えられ、<総合芸術作品>として設えられた中に音楽がその演出効果を高め、荘厳な「空間」を恣意的に作り出した時代である。
<国立図書館(1719-35 F.v.エアラッハ設計)>
音楽芸術を式典形式に導入すると同時に貴族の教養を担っていたが、ヨーゼフ2世(治世1765-90)はそれまでの王室と貴族のものであった宮廷劇場を国立劇場(現国立オペラ座)として市民に解放した。古典音楽が社会に解放され、貴族から市民へとサロン等を介して大衆化し始めるのである。
この音楽環境にウィーンもしくは近在の音楽家が招集されていたがやがて自らの才能を開花させるために国境を越えてウィーンに多くの音楽家が集まるようになる。
ハイドン(1732-1809)やザルツブルグのモーツアルト(1756-1791)は王室に招集されるが、やがてハプスブルグ家の財政危機もあり王室から貴族が支援者となって音楽文化が敷衍化することになる。ハイドンに師事すべくウィーンに出てきたベートヴェン(1770-1827)、ウィーン生まれのシューベルト(1797-1828)等は貴族によって擁護されたのである。それは宗教音楽から式典音楽、サロン音楽と次第に主題が市民の感情に近づくように変化していった。

<左から、ハイドン(1732-1809)、モーツアルト(1756-1809)、ベートヴェン(1770-1827)>
<サロンのシューベルト(1797-1828)>
勿論天才的音楽家のみで音楽が振興したのではなく、背後にアカデミーがありサロン等で音楽の保護育成に勤め、のちに古典音楽と呼ばれる時代を形成する。
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