

曲木椅子No.14物語(大串哲郎)
ドイツの家具職人ミヒャエル・トーネットが1859年に発表した曲木椅子No.14は ヨーロッパで興った産業革命と大きな関わりがあります。18世紀末から19世紀 初頭にかけてのヨーロッパ、特に世界都市ウイーンの歴史的背景と職人M.トー ネットが曲木技術を家具製作に応用した流れを辿っていきます。
ミヒャエル・トーネット ウイーンに行く
メッテルニッヒ侯の口添えで、オーストリアで特権を得られる。
それが故郷ボッパルドを離れ、46歳のトーネットをウイーンに向かわせた理由でした。1842年のことです。
当初、ウイーンに行くことにあまり乗り気ではなかったトーネットには10人近い子供がいました。彼は妻アンナとの間に全部で男9人、女4人の計13人の子をもうけました。1歳前後で死亡した子や女子の消息が不確かな事もあり、46歳当時に何人の子供がいたのかは詳しくは判っていません。しかし、ウイーンで彼の仕事を助ける5人の息子達はすでに生れており、何人かはボッパルドで仕事の手伝いをしていました。
妻アンナと子供たちはトーネットがウイーンに呼び寄せるのを待ちました。それは半年後に実現し、新天地ウイーンでの活動が始まります。
ミヒャエル・トーネットと5人の息子達
ウイーンでの最初の仕事はリヒテンシュタイン宮殿の改修工事で、下請けの仕事ながら複雑な寄木細工を施した床工事を立派にこなしました。その為、メッテルニッヒ侯の紹介で貴族のために家具の修理や薄板の曲げベニアで作った、ビーダーマイヤー様式とは違う新しい感覚の椅子を作って好評を博しました。
技術的にはボッパルドで特許を取得した薄板の曲げベニアで色々な曲線を形作り、貴族達の満足を得られる優雅な家具を作りだしました。特に、シュヴァルツンヴェルグ侯の邸に納めた椅子は優雅で好評でした。後に、この椅子を原型とした量産モデルのNo.1を1843年に発売します。
リヒテンシュタイン宮殿に納めたトーネット製作の椅子
メッテルニッヒが主導する旧体制を墨守した復古主義は1843年のウイーン三月革命の勃発で完全に一般民衆主体の共和体制へと移り、メッテルニッヒも失脚してしまいました。
大都市ウイーン(当時のウイーンの人口43万人、江戸は100万人以上)では、一般市民が社会を動かし始め、新しい時代の幕開けが到来したのです。
■トラックバック
http://info-station.test-domain.jp/mt_admin/mt-tb.cgi/362
