

歴史都市ウィーンを規範に文化都市<東京>を見つめ直すフォーラム(吉村實)
パリのシャンゼリゼ通りやウィーンの環状道路が何故美しいのか何時も考えます。それらが建設されたのはたかだか150年ほど前です。大戦による被災後も再建しその美しさを維持しています。また1200年の京都、300年の江戸は町屋という衛生的な美しい町づくりが行われました。翻って現代の東京を見ると、機能美といいながら行政や企業側の論理で町が出来、何処も近似になっています。そこには一方の価値観で、市民を含めた共通の価値観が見いだせません。それは不便さも美学的に納得されるものであれば文化として意味を持つものなのに、エトス(社会全体の共有の美学)と呼ばれるものが議論されない社会風潮に原因があるかと思います。市民社会の形成時に芸術家が関与し独特の街を作り上げたウィーンをモデルに現代の都市/生活環境を考える広場にしたいと思っています。
ワグナー4
美術アカデミーで、既に着工していた国立オペラ座の設計者ジッカツブルグとファン・デア・ニュウルに高い芸術精神のなか実利と画術を学び、1962年に卒業しフェルスターの事務所に勤め実務を研鑽する。やがて個人で事務所を開設し設計競技に参加しモニュメンタルな建築の機会を伺いながら都市住宅の設計を行っている。既にウィーンはマスタープランが設定され住区が確定されていたので、その計画に従って多くの都市住宅を実践している。先行される都市施設のいわば古典主義のリバイバルではなく、意識としてウィーン生まれのワグナーはウィーンに相応しい新しい建築芸術を試みていた。
その都市住宅の設計機会は土地を所有し自ら施主であり設計者となって実現し、その資金を次のプロジェクトにと回していたという話がある。そこには市民のニーズを直接把握する実務家としての顔もあり、ウィーンの都市的特徴を身近に収集していたということだろう。つまり建築の与条件の時代的変化は、同時期建設されている建築の考えが既に古いということを実感したのであろう。
ショッテンリング23番地(1877)、ラートハウス通り3番地(1881)、シュタディオン通り6-8番地(1883)、ロブコヴィッツ広場1番地(1884)がこの頃の実作で現存するものである。周囲の都市住宅に倣うことなく様々な表現の挑戦を行っている。
また美術アカデミーを卒業し芸術家館(キュンストラーハウス)のメンバーになりサロンに出入りし情報収集を怠らなかった。ついでながら日本が初めて国家として出品したウィーン万博(1873)はワグナーが32歳の時である。
ワグナーは30歳台の終わりにそれまでの経験とモニュメンタルな建築への志向で<アルテブスALTIBUS>(1880)というプロジェクトを発表する。
実務を重ねながらウィーン生まれの彼は古典建築をベースに独自の新しい都市像、建築観を構想し続けていた。その成果を空想の美術館計画(ALTIBUS)を発表する。
美の殿堂であるパンテオン(万神殿)を中心に据え、噴水を含めた軸に美術館棟、博物館棟の重要施設を配置し、ランドスケープを含めた環境全体で芸術都市ウィーンの未来像を描き出したのである。これは巧まざる建築とウィーンへの愛情の表現であったのである。
建築の女神がワグナーに味方したのか大きな転機がやってくる。在野にいて着実な活動は、1893年のウィーン市総合整備計画の設計競技で1等賞を得て、都市交通問題委員会とドナウ川改修事業委員会の芸術顧問として官吏となり為政者になる。その肩書きもやがて主任建築監督官になる。翌年ハウゼナウワーの死去に伴い美術アカデミーの推薦を受け教授に就任する。官学のリーダーとしての地位も与えられる。この時助手だったJ・M・オルブリッヒ、学生だったJ・ホフマンとの出会いがある。
ワグナーの一つの理念として「必要が唯一芸術の主人である」という言葉がある。後にバウハウス(1919開校 校長のW・グロピウスもまた若い頃ウィーンに出入りしていた)から発生した機能主義Functionalismという現代建築の教義に先行する言葉である。

E・シーレの描いたワグナーの肖像画(1910)

ALTIBUS(1880)

シュテファニー・ベルギー王女の歓迎祝典の飾り付け(1881)

ロブコヴィッツ広場1の都市住宅(1884)

文化記念碑(1909 実現せず)
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