アーバンライフ
都市生活クリエータブログ

ファッション情報・企画室「コルクルーム」のティーチイン

ファッション関係者が集うコルクルームで毎月開催されるティーチインは、話題の人を講師に招いてのセミナー。このブログでは、2007年以降の講演録を掲載していくとともに、次回ティーチインのお知らせなどをしていきます。 

繊研新聞と私。〜日本のFBの成長と転換点を探す〜

2007年11月26日

コルクルームのティーチイン報告
(開催日:2007年3月30日)

講師:山崎 光弘さん (元繊研新聞 出版局 出版部長)
テーマ:「繊研新聞と私。〜日本のFBの成長と転換点を探す〜」

 私は繊研新聞に1970年に入社し、今年の2月13日に60歳になり、定年を迎えるまで38年間務めてきました。入社してから編集一筋、そして後半5年間は出版局で本を作る立場に携わりました。現代のファッションの学校や専門学校の教科書や資料が、60年代前半を日本のファッションビジネスのスタート地点としているように、1970年代は、日本のアパレルやファッションビジネスが上り坂になった頃でした。1960年代までは、ファッションビジネスと言うよりも、繊維産業と呼ばれていた産業構造が大きく変わります。本格的なファッションビジネスの始まりは、70年代からと言えます。
今年7月のIFF開催に合わせて、「現代アパレル産業論(仮)」として出版することが決まりました。そのプロットの中から印象的な出来事をお話します。

◎70年代:団塊が目覚める
◆TFW(東京ファッションウィーク)とサンディカグループ
 70年代に「サンディカグループ」という組合が誕生します。当時は、洋裁学校の生徒が90万人いたと言われています。そのため婦人服は、既製服よりも自分で作ることの方が多かったのです。紳士服に関しては、既製服の割合が50%を超えたのは73年になってからです。それまでは、家で作ったり、イージーオーダーで作らせたりすることの方が主流でした。既製服メーカーもありませんでした。今で言う専門店が、昔は洋裁店でした。ちなみに私の両親も生地と洋裁店を営んでいました。ここでは、洋裁店が洋装店へ移行する時期を迎えたのです。サンディカグループができたことで、専門店において婦人服ファッションの提案をしていきました。また、オーナー同士が仲の良いグループであったため、高度経済成長期の前で、団結が成されていました。そして、当時の東京婦人子供服工業組合が主催するTFW(東京ファッションウィーク)に発展したのです。

 日本は、戦後のスタートでファッションビジネスの産業化が遅れているように見られていますが、パリコレクションは70年代にプレタポルテに転換し、ミラノコレクションが始まったのも1975年でし た。世界同時進行でファッションビジネスはスタートしたというのが、今回の新発見のような気がします。日本の人口が1億人を突破したのも70年代のことで、人口が増えるということは需要が増えるということです。ちょうど現代の団塊世代が社会の仲間入りをしたのもこの頃でした。

◆DCメーカー誕生〜団塊が支えた日本デザイナー企業〜
 サンディカグループを中心に専門店が普及していく中、これに飽き足らず、DCメーカーが登場します。地方の専門店は家族経営が多く、地元の高校を出て10年、ようやく店長になった世代は、将来に不安を覚えます。「このまま店長どまりで、社長にはなれない」 と。そのような不安・不満をDCメーカーは、うまく衝き、独立への後押しをしていくです。

70年代にはオイルショックがあったために不況のイメージもありますが、ファッション界に大きな影響はなく、「婦人服だけが何故売れる?」と当時の新聞の見出しにもなった程です。ただ、原糸メーカーや商社へのダメージは大きかったようです。74年に日本経済がマイナス1.2%を記録しています。主役は素材を中心とした繊維産業から最終製品を企画販売するアパレル産業に移行していった時期と言えます。

◎80年代:国際化の始まり
◆アメリカで“日本”を売る〜JFF(NY展)〜
 日本は2回のオイルショックを経験したことで更に経済的に逞しくなり、高度成長経済に移行していきました。しかし、アメリカはベトナム戦争後で不景気の真只中でした。リセッションという言葉も使われるようになりましたが、景気後退であるのに物価高という矛盾した時代でした。そして日本の水準をアメリカに見せつけるべく1981年、NYで第1回JFFが行われ、54社が参加しました。参加した日本人はほとんど英語が話せませんし、貿易業務も熟知していないので、展示会場で構えているだけで実売には中々繋がりませんでした。しかしそこで感動したことは、様々な州からバイヤーが集まり、商品を買い付けていたことです。見本市会場のプライス表示もFOB価格でなく、急遽、LDP(ランデッドプライス)に切り替え、混乱をもたらした。
貿易実務に長けていなかったということです。マークアップしてどれだけの値段になるかを調査する必要があったと言えます。2回目にはセントラルパークのシェラトンセンターで開催し34社が集まり、3回目はペンタホテルで開催し27社が参加しました。

私は現地の報道側として、JFFに買い付けに来ていたバイヤーに「気に入ったブランド」のアンケートを行いました。第1回目は「TAKEZO TOYOGUCHI」(豊口武三氏)、第2回目は池田貴雄氏、第3回目は「WAKATSUKI」が1位の票を獲得しました。各社の売上げは十数社が10〜20万ドルを記録しています。その後もアメリカ各地で百貨店が主催するジャパンフェアが行われ始めました。JFFは日本ブームの引き金にもなりました。

◆DCブランド全盛〜婦人服だけがなぜ売れる
 アメリカでは、85年にダナ・キャランが登場したことで、キャリアウーマン市場が急速に拡大し、話題になりました。78年には女性の中の有職婦人の割合が5割を超えました。80年代前半までは古き良きアメリカと言えます。私の初めてのアメリカでの仕事も、78年のブルミングウェルズのインドフェアの取材でしたので、印象的です。80年代に突入し、一気にキャリアファッションが広まりました。

◎90年代:“際(きわ)”がなくなる
 国際化の始まりによって、「国の際」がなくなっていきました。また、小売業でありながらものをつくる、製造業でありながらものを売る、といったように「業の際」もなくなりました。今でこそ当たり前になりましたが、「資本の際」がなくなったのもこの頃です。私は76年からアメリカ流通業の取材に恵まれました。その取材のなかで、アパレルメーカーなのか、小売業なのかはっきりしない企業が急激に売上げを拡大していることに気が付きました。それが、「ザ・リミテッド」であり、「ザ・ギャップ」だったのです。商品を企画し、生産し、自らのリスクで販売まで行い、売上げも伸ばしている。形容の仕様がないので、当時の繊研新聞には「新興アパレル」と表現していました。ギャップ社長のダン・フィッシャーに取材のアポイントがとれなかったのですが、ウチのサンフランシスコ通信員が所有していた端株のおかげでギャップの株主総会に出席することができました。株主総会の場で、自らの業態を「SPA(Specialty Store Retailer Of Private Label Apparel)」という表現があり、報道記事として送稿しました。

 この一方アメリカでは、百貨店の買収合戦も熾烈になっていきました。当時、NYの百貨店は「FIVE STAR」と言われ、A&S、Bアルトマン、ロード&テイラー、メイシーズ、ブルーミングデールズの五つが代表格でした。しかし今は残っておらず、フェレデーテット1社になってしまいました。現在の日本では百貨店の合併が頻繁に話題になっていますが、20年前のアメリカでは既に行われてきていたのです。日本では、会社法や商法が改正されたり、5月からは三角取引ができたりと、現金だけでなく株式の譲渡で買収ができるようになります。ですから、今以上にこのような話題が増えると思います。

◎2000年代:新旧交代
◆「そごう」型経営の崩壊 
 90年代後半から東急日本橋店などの百貨店の閉鎖が相次ぎました。衝撃的だったのは、2001年の「そごう」の倒産です。これが後々尾を引くことになりました。

◆GUCCI対LVMH 世界覇権を巡って壮絶な訴訟合戦
 ルイ・ヴィトングループがグッチを追いつめている時分、1999年12月ベルナール・アルノー社長を除くルイ・ヴイトングループ内の5人の社長に2週間かけてインタビューを行う機会に恵まれまし た。私の記者生活で最後の海外取材となりました。ブランドが一つのアイコンビジネスに発展しており、世界の有力ブランドをいかに傘下に収めブランディングしていくのかの熾烈な抗争が、2000年に入り本格化します。グッチを再建したトム・フォードが、グッチ単独では戦えないためにPPR(旧ピノー・プランタン・ルルードゥ 社)に資本参加を求めました。ルイ・ヴィトングループは、ディオールを基幹ブランドにシャンパン、バッグ、百貨店等の会社を買収して集まったグループです。3年に及ぶ抗争でしたが、結果は痛み分けでした。「買収したグッチ株を一株いくらで買い戻すか」が争点になり、結果として多額のお金がルイ・ヴィトングループに入ったと思われます。

◆イヴ・サンローランの引退とハナエ・モリの蹉跌
 2001年1月にイヴ・サンローランが引退を表明し、5月にはハナエ・モリが蹉跌してしまいました。戦後から時代を築き上げてきた人物が、次々に現役を退いていきました。大きな節目を迎えていたのです。イヴ・サンローランが引退表明したのは2001年1月7日でした。ビジネスパートナーのピエール・ベルジュと共にパリ16区のイヴ・サンローランのサロンで会見は行われました。サンローランは「心より愛しているこの仕事と別れを告げることにした。」との内容の原稿を読み上げ、質問は受け付けませんでした。その後の取材に答えたのが、ピエール・ベルジュです。「10年前から、私は、オートクチュール(20世紀の遺産)は世紀を跨ぐことはないだろうと言ってきた。ただ終わってみれば、たった1年の違いだった。イヴは、ボールを打ち返す相手のいないテニスの試合に出ているように感じていた。オートクチュールとは、今はもう存在しない、人生の芸術に伴うものだった。ところが、今我々はビル・ゲイツやナイキの時代に生きている。サンローランは自らメゾンを始め、そして自ら辞めた唯一のクチュリエだ。」と、サンローランの言葉を代弁しました。オートクチュールは、かつての独創性、創造性を競い合うバレンシアガやディオールを相手にしたテニス(勝負)ではなく、サンローランはマイクロソフト社創業者のビル・ゲイツのような、巨大な売上げと利潤を求める格闘家とも戦わなくてはならない時代になった、という認識です。
試合にはならなかったのです。勝負が対等にできる相手は“人生の芸術”であって、それは既に存在しませんでした。

 ~繊研新聞パリ通信員の臨場感あふれる記事を紹介します。
『記者会見は16区のイヴ・サンローランのサロンで開かれた。正午丁度に、黒のネクタイ、同じく黒のスーツ姿で現れたイヴ・サンローランは、緑色のテーブルにつくと、40年前と変わらない控えめな声で、しかしはっきりとした口調で用意したテキストを読み始め た。その内容は44年に渡る彼の仕事への情熱を、ディオール、バレンシアガ、シャネルに対する敬意と、自分がつくってきた時代、女性への愛、そしてここまで導いてくれた人達、応援してくれた全ての人達への感謝の意を感動的に語るものだった。引退の理由は、健康上の理由と会社経営の不安という一言であったが…。(省略)』

最終的にイヴ・サンローランはPPR社に買収されてしまいますが、サンローランはピノー氏にもお礼を述べ、「私はあなた達を忘れはしない」と言った。数秒間の恍惚とした沈黙が会場を流れ、直後に喝采がわきあがりました。そして、モード界のプリンスが姿を消したのです。この会見の挨拶では、「失われた時を求めて」で知られるマルセン・プルーストと、詩人のアルチュール・ランボーの引用も含まれ文学的でとても美しいものだった。

◆TGC(東京ガールズコレクション)の登場
 最近注目されているTGCは、消費者をダイレクトに巻き込み、尚かつ携帯電話におけるビジネスです。専門店とサンディカグルー プ、百貨店の作ったミッシーカジュアルの大手アパレル等のよう に、流通ともの作りのパートナーが存在してきました。その要素がTGCにも含まれていて、新しいタイプのアパレルに変えていく力を持っています。主催者であり、昨年、繊研賞も受賞したゼイヴェルの大浜史太郎社長は、南カリフォルニアでイベント関係のアルバイトをしていたためか、つかみ方が非常に巧く、ファッション業界では信頼を勝ち得ている人物です。顧客の尺度を、テレビ業界で使われるF(女性)、M(男性)で分析し、F1層(10代後半〜34歳)にターゲットを絞っています。日本には100に及ぶファッション雑誌があります。その中の赤文字系の4誌、「Can Cam」「ViVI」「Ray」「JJ」だけで7割近い市場を持っています。

特に、「Can Cam」は80万部を売上げ、掲載されるブランドの売上げ総数は1000億円に達しています。日本ほどファッション雑誌が流行に関与している国はありません。TGCでは、この4誌の看板モデルをショーに出演させています。また、光文社、主婦の友社、集英社、講談社が一斉に集まる等、他では考えられません。TGCの手法は計算しつくされていて、大きな存在と言えます。大浜社長は、IPO(Initial Public Office)はせずに、有機商法としてじっくりやっていくと語っています。何年か経てば現在の顧客も歳をとります。新たな顧客の分析も含め、これからが正念場となるでしょう。

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