

歴史都市ウィーンを規範に文化都市<東京>を見つめ直すフォーラム(吉村實)
パリのシャンゼリゼ通りやウィーンの環状道路が何故美しいのか何時も考えます。それらが建設されたのはたかだか150年ほど前です。大戦による被災後も再建しその美しさを維持しています。また1200年の京都、300年の江戸は町屋という衛生的な美しい町づくりが行われました。翻って現代の東京を見ると、機能美といいながら行政や企業側の論理で町が出来、何処も近似になっています。そこには一方の価値観で、市民を含めた共通の価値観が見いだせません。それは不便さも美学的に納得されるものであれば文化として意味を持つものなのに、エトス(社会全体の共有の美学)と呼ばれるものが議論されない社会風潮に原因があるかと思います。市民社会の形成時に芸術家が関与し独特の街を作り上げたウィーンをモデルに現代の都市/生活環境を考える広場にしたいと思っています。
クリムト2
画家は画法の技術と共にその構想力が問われる。当時歴史絵画にリアリティさを出すためにウィーンは多くの資料を保管していた。昔の衣装、生活小物などが博物館に多くあり、それらを写実する機会は得ていた。そして太古の物語、神話、宗教的な儀式、逸話等の理解で構想を練るのである。クリムトはそのような両方の実力を得て画壇の若き第一人者になる。幾度かの美術アカデミーの教授の推薦を受けるが、しかしながら決まることはなかった。
「旧ブルグ劇場の観客席」(1887)に見られるように写真のような写実的な実力も見せつける。環状道路に面して新築される新ブルグ劇場(1874-88 設計ゼンパー、ハウゼナウワー)のため取り壊される旧劇場のインテリア及びその常連観客の王家の人々を描き記録的な絵画(1888)をものにする。(まだ写真技術が発達していないため映像記録は画家の仕事。)この絵は皇帝から賞金が授与されたものである。同時期に新ブルグ劇場の天井画を描いている。
マカルトのやり残した美術史美術館の階段ホールの壁画(1890-91)を完成した後、1891年ウィーン芸術家協会に加盟する。また「トティスの劇場の観客席」(1893)が国家勲章を授与され、順風であったが、その前年はクリムトにとって不幸な出来事が起こる。父と弟エルンストの死である。その衝撃は大きく一時打ちひしがれ、芸術家商会はマッチュに任すようになる。1895年に「寓意と象徴」第三巻の挿絵を寄稿するが、それまでの自分の絵画について見直しの時期であったようだ。注文を受けた絵画は堂々たる歴史絵画としてこなしながら時代とのズレを認識し始めたのである。すでに個人のスケッチに現れている画風は象徴主義的色彩を帯び、写実的な画風ではないのである。
この時期クリムトはブルジュア精神の卑属化した芸術を否定し人間の存在や内的な精神性を表現しようとした象徴主義を受け入れ彼なりの画風を目指し始めた時期である。自己否定し脱皮しようとした時期といえる。そのような状態の中1895年にウィーン大学(1873-84 設計フェルステル)の大講堂(フェストザール)の天井画の依頼を受ける。
1895年頃、若い美術アカデミー出身の連中、特にオットー・ワグナーに薫陶を受けて建築家M・ファビアーニ、J・Mオルブリッヒ、J・ホフマン、J・コテラ、そして画家のK・モザーや彫刻家らが「青い自由の館」や美濡アカデミーの裏の「カフェ・シュペール」に集まり、新しい芸術の傾向を模索していた。このグループを<ジーベナー・クラブ>と呼んでいた。このメンバーは芸術家協会のメンバーでもあった。この集まりには時々O・ワグナーも顔を出していた。画家としてクリムトもこの会に顔を出すようになった。このグループとの交流でクリムトも新しい流れを実感し、<総合芸術>としての絵画の在り方と自分の画家としての社会的役割の認識をしたに違いない。
ウィーン大学の「哲学」「法学」「医学」の下絵をプレゼンテーションするが、文部官僚の不見識さに落胆する。本来真の芸術を支援すべき芸術家協会のメンバーもまた保守的でありすぎたがため、クリムトは決断し脱退を図る。それに同調し1897年に<ジーベナー・クラブ>のメンバーを中心に約40名が芸術家協会を脱退し新しい芸術団体(オーストリー造形芸術家連盟=ウィーン分離派)を作る。
クリムトは結婚をしていないものの終生パートナーとして付き合ったエミリエ・フレーゲ(1874-1932)の存在がある。その出会いは1890年頃で、弟のエルンストがエミリエの姉ヘレーネに求婚し関係が近くなるが、エルンストの死後姉妹の面倒を見るようになる。後に彼女は姉妹でブティックを開きクリムトは援助をするようになるが、彼女らもクリムトを通じて若い芸術家集団のサロンへの出入りの中新しいファッション・デザインを開拓するようになる。このファッションは貴族を顧客としていたデザインが市民のものになり始めたものといえる。彼女等はクリムトに実業家の社交界を紹介し肖像画の顧客を獲得できるようにした。

「旧ブルグ劇場の観客席」1889

「寓意と象徴」第3巻 挿絵 1890

「エミリエ・フレーゲ 17歳の肖像」1891

ブルグ劇場の階段ホールの天井画 1893

「愛」1895
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