

歴史都市ウィーンを規範に文化都市<東京>を見つめ直すフォーラム(吉村實)
パリのシャンゼリゼ通りやウィーンの環状道路が何故美しいのか何時も考えます。それらが建設されたのはたかだか150年ほど前です。大戦による被災後も再建しその美しさを維持しています。また1200年の京都、300年の江戸は町屋という衛生的な美しい町づくりが行われました。翻って現代の東京を見ると、機能美といいながら行政や企業側の論理で町が出来、何処も近似になっています。そこには一方の価値観で、市民を含めた共通の価値観が見いだせません。それは不便さも美学的に納得されるものであれば文化として意味を持つものなのに、エトス(社会全体の共有の美学)と呼ばれるものが議論されない社会風潮に原因があるかと思います。市民社会の形成時に芸術家が関与し独特の街を作り上げたウィーンをモデルに現代の都市/生活環境を考える広場にしたいと思っています。
クリムト 3
1897年に画壇の長老ルドルフ・フォン・アルト(1812-1905)を名誉会長、会長にクリムトでウィーン分離派(オーストリア造形芸術家連盟)は発足する。キュンストラー・ハウス(ウィーン美術家連盟)から、画家G・クリムト、K・モル、K・モザー、建築家J・M・オルブリッヒ、J・ホフマンらがまず脱退し、建築O・ワグナー等が続く。

この年カフェ・グリエンシュタイトルが取り壊された。ミヒャエル広場の拡張工事にともなう立ち退きであった。このカフェは文学の<若きウィーン派>の拠点でもあった。散文的でボヘミアンスタイルのペーター・アルテンベルグ(1859-1919)、「輪舞」「恋愛三昧」を著したアーサー・シュニッツラー(18621931)、「自然主義の克服」で芸術家の解放を説き美術や文学批評を通じて旺盛な社会批評をしたヘルマン・バール(1863-1934)、「バラの騎士」等オペラの台本作家フーゴ・フォン・ホーフマンスタール(1874-1929)、雑誌「炬火ファッケル」で批評活動をしたカール・クラウス(1874-1936)などが常連客としてた。別名「ほら吹きカフェ」と揶揄されたように文士等によるエネルギーが横溢していた。このエネルギーはカフェ・セントラーレに移され新しい文学の誕生を待つが、社会批評では分離派の動きを認め擁護した。
政治的には1897年はカール・ルエガー市長が皇帝に認可され就任した年でもある。それまで1985年に当選したものの皇帝から認可されず、5度目の当選でフランツ・ヨーゼフ皇帝からやっと認可されその地位につく。彼は新しいウィーンを作るべく市民側のマニフェストを持つが皇帝や既成の行政者からは疎んじられていたが、皇帝も市民の支持の大きさに無視できなくなったためである。それは大きな市民の価値観のうねりが芸術の分野のみではなく社会全体が新しいウィーンを生み出すべく方向づけられた記念すべき年といえる。ガス、水道、電気といった公共整備から始め市民生活の近代化を実現し始めた。トラム(路面電車)が開業、プラターの大観覧車が開業もあり大きく市民生活も代わり始めようとしていた。


2年後の1899年にオペレッタ「こうもり」を最期にしたヨハン・シュトラウスの晩年ながら、グスタフ・マーラーがウィーン交響楽団の指揮者に迎えられ楽友会ホールで最初のタクトを振った年でもある。ウィーン楽派(ヴィーネル・クラシック=ハイドン、モーツアルト、モーツァルト)の伝統を継ぐ新ウィーン楽派(アーノルド・シェーンベルグ、アルバン・ベルグ、アントン・フォン・ヴェーベルンら)の台頭で音楽の分野も変化し始めた年でもある。
1897年の分離派の結成と翌年の第一回展はウィーンにとって大きく社会が動き始めた中から生まれたもので、単に芸術という一分野のみの動きではなくウィーンの社会変化に大きく芸術の分野が関わっていることが解る。

クリムトはこの年から画家であり分離派の長としての重責を癒すかのようにエミリエ・フレーゲ(1874―1962)とウィーンの西200Kmのアッター湖畔で夏を過ごすようになり、彼独特の風景画が始まる。

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