
TOKYO URBAN LIFE 2006招待作家の長谷川章さんはD-K(デジタル掛け軸)という光のライブインスタレーションを制作した映像アーティストで、世界遺産をはじめとした各地で開催しています。
2006年10月27日(金)、28日(土)の夜、海外の芸術祭(上海、サンノゼetc.)で絶賛されたD-Kが青山スパイラル(TOKYO URBAN LIFE 2006のコア会場)1階アトリウム空間にて披露されます。それに先立ち長谷川さんにインタビューを行いました。
尚、TOKYO URBAN LIFE 2005(第1回)において、D-Kは東京国際フォーラムにて圧倒的な迫力で参加者を魅了しました。
2006年10月27日(金)、28日(土)の夜、海外の芸術祭(上海、サンノゼetc.)で絶賛されたD-Kが青山スパイラル(TOKYO URBAN LIFE 2006のコア会場)1階アトリウム空間にて披露されます。それに先立ち長谷川さんにインタビューを行いました。
尚、TOKYO URBAN LIFE 2005(第1回)において、D-Kは東京国際フォーラムにて圧倒的な迫力で参加者を魅了しました。
映像アーティストの長谷川章さんによる光の芸術。無数の静止画をコンピュータが無作為に選び、組み合わせた映像をプロジェクターで建物や自然などに投影する。その移り変わりが極端に遅いため一見静止画のように見えるが、しばらくその場に身をおくと地球の自転や夕陽にように移ろっていることに気づかされる。
東洋人の持つ無常の精神から、独自の映像アートのD-K(デジタル掛け軸)を発明。人間という生物のリズムを取り戻す新しいライブインスタレーションとして世界遺産や各国の芸術祭にて開催している。
また、日本民間放送連盟TVCM部門最優秀賞をはじめ数々の賞を受賞。NHK大河ドラマ「琉球の風」タイトル、中国電視台(CCTV)のステーション・ロゴ、TVCMなどを数千本制作。
(Dailymotion)

今まで、NHKの大河ドラマ・タイトル、中国電視台(CCTV)のステーション・ロゴ、資生堂やサントリーといった大手を中心としたテレビコマーシャルなど、約4000本をつくってきました。それに矛盾を感じるようになったのですが、これらの映像には当然ですが始まりと終わりがあり、このことが見る人を拘束させているのではないかと気づいたからです。
僕が世の中に送っていたものはデータという物語性で、実際の海や風のような悠久さはありませんでした。また、トマトの映像を送っても見る人は決して食べることはできません。映像においても、電気のように光を送り、水道のように水が送れる、そんなインフラ的なものを制作できないだろうかと研究を始めたのが10数年前。そこで気づいたのが、フレームをなくし始まりと終わりをなくすこと。それは移ろいをとらえる静止画を使用することでした。
いろいろなアートのジャンルがありますが、D-Kはどれにも当てはまらない全く新しいものです。今までのアートは、立体であったり、フレームの中にあったり、テレビのように始まりと終わりがあったり、空間や時間軸の中に収まるものでした。僕はそれを全部取り払った。
まずD-Kによる表現ではフレームをなくしました。囲まれた枠がないということは、宇宙にまで溶け込む広がりがあるということです。それは仏教で言うところの色即是空を表すことにもなります。
いわゆる動画には始まりと終わりがあり、見る人はそこを期待しています。じつは、そのことはストーリの展開を読み取っているだけなのです。そこには今というライブ感がありません。ところが D-K は静止画であり、それがゆっくりと移ろいでいきます。ある瞬間においての、木や石や建物、この世に存在するすべては静止画であり、同じく静止画の D-K と完全に調和し、また同化します。そして静止画でありながらも立体という 3 次元の空間に溶け込んでいきながら移ろいでいきます。
それは見る人が絵の中に入れるということ、絵の中に生きるということ、つまり絵の一部になるということ。ゆるやかに移ろいでいった絵の変化にふと気づいたとき、絵の中にいた自分自身が絵の制作者であり、今展開されている物語の主人公になっているのです。
D-K を見ていると 1000 年経っても変わらないと思っていたものが、ふと気づくとぜんぜん違うものになります。それは見た人の記憶と現実のギャップです。それを感じられるということは見る人全員がそれぞれの感動を持つということです。そして一人一人が、つい先ほどと今という歳月から、自分の命を感じることができるのです。
「生きているみたいだ、神様みたいだ、呼吸しているみたいだ」などと言う人もいます。じつは自分が映っている鏡に映し出されたものであり、自分自身が生きているということを気づかせてくれているのです。
よく、芸術家や小説家などが来て、「オーロラ、夕焼けの移ろい、液体映像、音楽と映像の中間」などと称するのですが全部当てはまりません。もちろんその一部ではありますが。言うならば見た人が作家だということです。
経験したことがあるかも知れませんが、森に足を踏み入れると、何が白樺で、空で、雲で、といった思考が一切消えることがあります。僕はそれを無常と言います。それと同じように D-K を体感すると全く無我の境地になれ、そして無心になれる。ということは、その瞬間には何もないわけですから、宇宙が全部自分になるということです。人工物や自然物等の境が全くなくなる。自分ということ、自然ということ、時間からフレームまで、全部の境がなくなる。つまり D-K は自分自身から開放される装置とも言えるのです。それは自分の命そのものであり、自分と宇宙が同じものと知る鏡なのです。
